2011/5/3〜7 GW旅行

以前から東北地方にたびたび訪れていた我々でしたが、東日本大震災後に初めて福島県に足を踏み入れました。
今回は平日に休みを取りづらく、短期間での訪問しかできませんでした。
いつも通りに会津のシルクバレーキャンプ場でゆっくりしたかったのですが、情報があまり入ってこなかった宮城県塩竃の親戚宅を訪問することにしました。


5/3(火)
横浜→シルクバレーキャンプ場

相方の帰宅を待って3日の夕方横浜出発。都内は激しい渋滞。
東北道に入れたのが8時近く。
佐野SAで夕食。西那須野塩原ICから南会津へ。
シルクバレーキャンプ場に入ったのは、0時近くだ。
キャンプ場の予約をツイッターで呟いてしていたお陰で、オーナーが起きて待っていてくれた。
午前1時位まで焚き火場でマッタリしてから、就寝。



5/4(水)
シルクバレーキャンプ場→塩竃・仙台市

朝起きたら、かなりの混雑ぶりにびっくり。

常連さんや知った顔にも逢えた


もう少しゆっくりして居たかったが、朝食を食べたところでおいとまする。
8時間くらいしか居なかったな。
岩風呂前の橘商店でお買い物して、湯の花温泉へ向かう。


途中のトンネル出た辺りで軽トラが道の真ん中に!
事故かと止まってみたら、道端にカモシカがうずくまっていた。
相方が昨夜も見たというから、相当弱っているのだろう。


湯の花温泉は、1日共通チケット制になったようだ。
チケットは商店か宿で購入できる。
チケット一枚で湯の花温泉の浴場をいくつも回れるのだとか。
老人ホームのも入れて5〜6ヶ所入れるそうな。ちなみに半分は混浴(((^_^;)
1ヶ所だけしか入らなかったのはもったいなかったかな?



東北道は自衛隊と警察車両のコンボイが多数走行してる。

仙台市内の渋滞を避け、北の泉で高速を降りた。

そのまま県道で東へと向かう。
駅を過ぎ、平坦な地形まできたころ、景色が変わってきた。
電柱が真っ直ぐ立ってない!チグハグな並びだ
空き地にはゴミを集めて、木材・家電製品・鉄くず・・・・と分別されて山になっていた


塩竈市内にはいると、国道クラスでも信号が消えていて、神奈川県警など他県の警察が交通整理をしていた。
港までくると、近くの商店は、50cmは水没したであろう痕や、駐車場で車がひっくり返っていたりする。

桟橋は整備されていたが、満潮時には近辺が浸水して水浸しになっていた。


そんな中、復興市一部のやレストランが元気に再開していた。

復興市で買い物した後、仙台へと戻る。



仙台駅前西口裏手の一通に幾つか駐車場
開いているとこに停め、まずは駅を散策
横浜以上の規模と活気は、被災があったのがにわかには信じられない程だ

帰りの足を確保した後は、夕食を名産でとアーケード商店街へ
いつも行く喜助に行く。

久々の牛タン旨い〜(^w^)ついつい多目に頼んで食べきる自分がいる。食べ過ぎだわね。



今晩は、仙台に住む相方のバイク仲間宅にお泊まり
次の日が早いというのに、地震起きた時の話とか、避難の時の話などを遅くまで聞かせていただいた。
震度6強の揺れは半端無く、比較的新しい家にもかかわらず、一部の窓は開かなくなっていた。

5/5(木)
塩竃→寒風沢島

朝、早くから朝食を準備していただいてしまった。
相方もご友人も、つもる話もあったようだが、時間がないのでオイトマする。
次に行くときは、じっくり話をしたいもんだ。

相方にマリンゲート塩竈まで送ってもらい、9時の船に乗る。GWだからか乗り込む人も多い。
格好を見ると遊びに来たような人が大半で、長靴にジャンパー、軍手の人は1/3程度だった

港出て最初の桂島で一回り小さい船に乗り換える。他の島々は港湾施設が復旧していないので、着岸できないのだそう。



船から塩竈港や島々の沿岸を見ると、5m以上の津波を受けた痕が生々しい。2階建ての建物も傾いでいたり、ボロボロになっている。
船は野々島経由して、寒風沢島へと向かう。
寒風沢島でも、以前の船着き場が無くなり、島の牡蠣殻剥き工場が臨時の船着き場になっていた。
船着き場といっても液状化で平らではなく、歩くのにも気をつかう程。
まだ島に重機は着てないので、人間が片付けられる程度しか片付いていないが、なんとか車が通れる道が出来ていた。
あちこちに人の背丈程の瓦礫。



まずは大叔母の家に行ってみる。家はなんとか保っていたが、中はがらんどう。畳すらない。壁の傷から、床上30〜40cm浸水していたようだ。
呼べども呼べどもいないので、避難所に行ってみる。旧小学校や神社に行ったが居ない。仕方なく近所の家に聞いてみたら、塩竈に行ったという。
完全に入れ違いだ。電話が通じないというのがこれほど不便とは…(x_x)
仕方なく、父の従妹に逢いにいく。だが20年ぶりなので、家どころか顔も覚えていない。周りに聞いてたどり着いた。
こちらは山の中腹なので津波にはあわなかったが、基礎がやられて半壊、ブルーシートを屋根にかけ、段ボールで窓をふさいで生活していた。
数日前に電気、ガス、水道が通じたが、それは器材がちゃんとないと使えないもの。下水道が復旧してないし、海水が混じるので、水は事実上使えないのと同じ
ガスも給湯器が壊れたり、お風呂との配管が外れたりでキッチン以外は使えないようだった

今は隣の家に身を寄せているという。自分の家がまだ片付いていないからと、私までお隣さんにお世話になる。断れないとはいえ、申し訳ない〜!

お昼をいただいた後、親族と一緒に島を巡る。島の東側は一面田んぼだったのだが、砂や海水が入り、使い物にならない。
島で高台にある小学校の門近くまで波がきたという。やはり、海抜5m以上の波がきたようだ。

島をぐるりと一周したところで、船の最終便の時間になってしまう。3時が最終だと、ほとんど時間がないなぁ。
最終便には、最初に会う予定の大叔母が乗ってきていた。明日、また来ると約束して島をあとにする。

マリンゲート塩竈から、ホテルまでは、約20分程、窓ガラスがなくなったコンビニや、チェーン店の飲食店、スナック等が元気に再開していた。

ホテルに着くと疲れからか即爆睡。夜になって慌てて仙台まで行き、掃除用具や手土産になりそうなお菓子を購入し、また塩竈のホテルに戻る。




5/6(金)
塩竃→寒風沢島

朝5時起きだなんて久々。ホテルの朝食も6時半からやっているという。7時の便に間に合う時間なのかな。

金曜日は平日だからか、学生を見かけた。乗船すると、半分が小中学生。20人以上いそうだ。塩竈に避難して通学は島に行くというパターンなのかな?
学生さん達に混じって引率の先生方も数人みかけた。先生方と学生さんは、野ノ島で降り、列を組んで通学していった。残って10名程が寒風沢島に降りる。

今度はすぐに大叔母さんと逢うことができた。大叔母さんは、母屋が津波で床上だったので、裏にある納屋で寝泊まりしていた。
6畳程の部屋に、回収できたタンスに布団と支援物資の段ボール、電気ポットと石油ストーブがところ狭しと積み上がって生活していた。
支援物資の段ボールは、10箱以上ある様子だ。

津波がきた時の話を聞いてみた。家にいたときに大きな地震にあい、これはおかしいと感じ、山の不動さん(神社)へと移動。
サイレンがなっていたかもしれないが、難聴のためわからなかったそう。
山に登る途中で津波が上がってきて、不動さんでも危ないと、さらに山の斜面をかけあがったそうな。山の斜面は、獣道程度の狭さでかなりの急坂。よく登れたなと思う。

小学校の校庭を抜けた台地に仮設住宅を建てるのだとか。瀕死のタヌキがポツンとうずくまっていたよ。

更にすすんだ山の斜面に、大叔母の畑がある。娘さんには血圧あがるから(すでに200らしい)、
作業するなと言われているようだが、かなり手入れがされていて日課を絶やしていないようだ。



そういえば、島での携帯保有率が一機に高くなった。まだ固定電話が使えないからだろう。
携帯も会社によって差がある。私が使うD社は山でも海でもつながったが、A社だと家の中だと繋がらなかった。S社は、誰も持っていなかったので、比較できず。
金曜日は、本当は5時にも船が出るはずなのだが、時々欠航するというので3時の便で帰ることにする。
親戚らにそれぞれ挨拶して船に乗り込む。
同乗した娘さんに地震時の様子を聞く。病院勤務だから、3日間帰れず、帰るにも膝まで濡れながらだったとか。
島とは全く連絡取れず、直に連絡取れたのは2週間後、その間医療機関は着ておらず、自衛隊も来ていたのか分かりかねるという…
島に定期船が渡るようになったのは今からほんの2〜3週間程前らしい
市内と違って島は港から山のような瓦礫が積み上がっていたが、人力以外はまだ無いのと同じ様子。
人間が出来ることには限界があるので、ほとんどお手伝い出来なかったな…
夜、本塩竈駅近くで開いている店に入ろうと、ウロウロ。チェーン店か料亭位しか開いてないので、地元色のある方にいく。
少々値が張ったが、地元の食材を美味しく食べられたから、良かった良かった。


5/7(土)
塩竃→松島→仙台→横浜

朝、ホテルの朝食を食べる。スマイルホテル塩竈は、バイキング形式で、割りと評価が良かっただけあり、美味しかった♪
ホテルでゆっくりしても良かったが、色々みて回りたかったので、8時前にチェックアウトする。


最初に向かったのは、塩竈神社。天然記念物の塩竈桜が満開に咲きほこっている。


220段ある階段を部活の子らが登り降りしていた。荷物持っての登り降りはかなりキツイ、自主練か?って自分にツッコミ入れたいよ…



駅に戻るが、電車は隣駅までしか復旧していない。なので、遊覧船を予約して松島まで行くことにする。

松島に着くと、普通に観光地。寒風沢など裏松島と呼ばれる浦戸諸島が防波堤になり、松島町には激しい津波はならなかったそうな
松島町から、西に行くJR代行バスに乗る。高城町からいっきに東松島町の矢本駅まで高速道で移動…これじゃ分かりかねるよ!



石巻まで行こうか悩んだが、時間的余裕がなく矢本駅から、各駅停車のバスで戻ることにする。
東名駅や野蒜駅など周辺は、まるでジオラマセットにでもいるかのよう。地震から49日過ぎているとは思えないほど生々しい
家がまるごと呑み込まれたところが多数、川には車が沢山水没していた。

東塩竈まで戻ると、仙台に住む父のいとこが待っていてくれた。車で塩竈から海沿いを南下する。

火災を起こしたタンク
道沿いに積み上げられた車の山
一面泥の田んぼ

海沿いの高速をくぐると世界は一変、車屋には車が並び、店も普通に開店している。場所によって震災被害の温度差があるというが・・・


親戚には夕食をおごってもらった上に家族用のお土産を渡され、仙台駅まで送ってもらう。
東北ならではのシキタリだとはいえ、申し訳ない気になる。

帰りの新幹線に乗って座った途端に爆睡・・・。次に目が覚めたら宇都宮を過ぎていた。
東京駅まで相方が迎えに来てくれた。大量の荷物があったから、助かった〜

すぐに帰宅すれば良かったのだが、途中実家に報告、質問責め。家に帰ると日付変わってたよ。



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